教育闘争の総括と方針

はじめに
 目の前で進行している教育をめぐる闘いの階級的意義と発展の方向性を考えるという作業が、我々をもふくめていまだ不十分である。大衆物理力主義、利用主義にこり固まった目から見るならば、ただ大量でかつはげしい闘いとしてしか意味を与えられないかもしれない。今日の教育をめぐる闘いは、実は、資本主義社会の根本矛盾を止揚していくことが出来るのか否かというプロレタリアートにとっての主体的課題として登場している。

1 帝国主義的分業秩序に適合する教育秩序の形成
 一方における単純肉体労働者の産出と産業士官・下士官の専門白痴としての産出、独占という巨大な兵営への教育の適合。

2 第二次合理化に適合した教育改革は、形式的再編――高等教育(特に理工系)の拡大とコース分け――が主であったが、第三次合理化に適合した教育改革は、教育の内容に重点をおき、しかも人間の生命力の激しい濫費と、資本家階級への包摂がすすめられている。

3 科学・技術、総じて精神的諸力能が資本の社会的権力として登場し、精神労働者は資本の付属物として育成されているという現実。
 自己活動の錯覚の下でのブルジョア的教育への批判――「道徳」または「幻想の防衛」――の破産を通して、社会的「死」の突破の問題のリアル化。

4 特殊に、資本主義的な生産関係――「労働過程と価値増殖過程の統一」――は、労働者階級の資本への形式的実質的包摂を基礎とするのだが、帝国主義段階におけるこの「包摂」の問題は労働過程、教育過程の自己活動の外観を最大限利用した「参加」の呼びかけの中にある。
 教育の矛盾を通して、労働者個々人と資本との関係、それを通しての政治権力との関係についての古い幻想と闘い方を越えていかねばならない。根本的には「自己活動」という幻想の下での「包摂」の問題。
 個々人の活動の自由がまずあって、その上で資本と関係するという錯覚、科学技術、労働教育がまずあって資本と関係するという錯覚。
 これらの錯覚の中からは、「包摂」の問題を理解しえない。
ここから出される方針は、道徳的「立場」――一方においては民主的インテリゲンチャ的立場――の確立という、資本に対する客観主義的把握と主意主義的実践に帰結し、「包摂」の中で敗北していく。

5 労働力商品の再生産過程――(直接的消費過程)―サービス労働の購買を通してその「労働力の価値」の形成――高い労賃として実現されるべきより高い「労働力の価値」の形成(自己活動の外観の中で行為される)へ向けての激しい競争を実践的に越えていく団結の形成と、構造的不況からさらに恐慌へと向かうにつれ、ますます醜悪に登場する分業そのものを止揚していく闘いへの発展が問われている。

6 第三次産業合理化を背景にした産協路線に対する闘いは一方においては科学技術をめぐる闘いの新たな方向性を指し示しまた闘いの革命的実践は工場労働者の反合闘争の中から受けとめられつつある。このことは労働者階級と資本家階級の教育・科学・技術をめぐる闘いへと今日の諸闘争が発展して来ていることを示している(プロレタリア統一戦線の実践的基礎の確立)。

7 今日の反産協闘争は個別的闘争としては産協路線の壁に突き当たり、一挙に限界=いきづまり状況に入って行く過程を繰り返して来ている。このいきづまり状況への突入は個別闘争としてはその闘争を如何にラディカルに展開しようが、資本主義的社会関係そのものを突破しない限りは勝利し得ないという状況下において当局と左派のいきづまりから中間部分の体制への逆流として現象して行く過程を歩んでいく傾向にある。問題はこの全大衆が流れて行く時点における明確な突破が最大の問題である。結論からいえば、プロレタリア統一戦線が突破口であり「解決能力の開示」である。このことは高級精神労働者が体制内的利害を越え、階級的利害を掲げて当局・政府・独占資本秩序の「競争」を通じての全面的攻勢に対決することである。

8 反産協闘争の中からファシズムとは何かということが実践的に突き出されねばならない。教育過程が消費過程であることから来る小市民的幻想は「自治、学問の自由」対「政治権力」という構造において、ファシズムを理解したとする。ファシズムとは特殊に資本主義的社会秩序の暴力的維持、プロレタリア的団結に対する全有産階級の暴力的敵対である。さて当局と官憲、当局と右派=民青連合、これらの動向はファシズムおよび統一戦線の問題として把握されるべきである。

9 反産協と反合との課題はやはり社会的権力の問題である。社会的権力の理解がプロレタリア的展開へ向かうか、否かの分かれ目である。資本の社会的権力を客観主義的に把握する部分は個人の主観的立場として資本との関係を結ぶ。社会的権力の問題は労働の資本の下への包摂の問題であり、資本の活動、分業の再編と労働者階級の活動との統一的把握の鍵である。教育問題はこの資本の社会的権力への隷属の問題抜きには何ら解明しえない。
 ところで資本の攻撃は単なる労働強化ではなく、賃労働と資本の関係の再生産の過程、すなわち直接的生産過程のみならず、流通過程を含めて攻撃があるのであり、反産協闘争と反合闘争は統一的に把握されるべき階級闘争である。

10 反戦、反合の基調の下、七〇年安保へ向けて闘いを組んできたのであるが、この基調の中から教育闘争の位置を捉え返してみる必要がある。教育闘争=反合闘争の延長上の安保闘争、すなわちプロレタリア的反戦・反合(反産協)闘争の推進の中から反ファッショ闘争、統一戦線問題への解答を引き出して行くという問題である。教育闘争の波が強く押し上げて行く過程は自然に生み出されていっている。これまでこの教育闘争の中から直接的に反戦・政治闘争に結ぶということが考えられてきた傾向があった。教育闘争の連帯、さらに労学の連帯から政治闘争へ向かう過程は、反ファッショ闘争、統一戦線問題をくぐり、対政治権力の闘争へと向かう。この過程は現実的には純粋にたどる訳ではなく、構造として提起されるものである。

(一九六八年一二月/『著作集第二巻』所収)


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